サモアの歴史

サモアが歴史(西洋史)に現れた時から現在に至るまで、簡単に紹介しています。

〜サモア古代史〜

 サモアの島々に人が住み始めたのは今から2500年前、サモアの西方、すなわち東南アジアのマレー半島周辺、フィリピンやインドネシアを起源に持つ。また、サモアを中心に、ポリネシアの各島へ人々が散らばっていき、定住するようになったと言われている。
 サモアは紀元後950年ごろより歴史の中に見られるようになり、それはトンガ人による300年間の支配から始まる。当時のトンガは強力な支配力を持ち、サモアのほか、フィジーの一部をも支配していたと言われている。1250年頃、サモアはトンガとの戦いを経て自治権を回復、独立する。この際に、現在の国王を表す称号「Malietoa」(マリエトア;勇敢なる者)が生まれた.


〜サモア諸島発見〜

 1772年、イースター島を発見したオランダ海軍提督Jacob Roggeveenがサモア諸島を発見したとされている。しかし、上陸はせずに現在のアメリカン・サモア近海を通り過ぎただけであり、上陸したのはBougainvilleが最初とされている。Bougainvilleは1786年に上陸し、そのときにサモアをNavigator Islandsと名づけた。
 そもそもどうして欧米諸国が太平洋の真ん中を行き来するようになったのだろうか。その大きな理由は二つある。一つは、日本においては学校で習う大航海時代を思い出してみよう。英国や阿蘭陀を始めとした欧州諸国がアジア・アフリカの産物・人間を次々と自国に輸送するようになり、植民地支配を広げていた時代である。
 もう一つの理由は、捕鯨である。産業革命を境に発展した工業機械には潤滑油として鯨油が欠かせないものとなっていた。また、灯火用ランプには燃料としても鯨油が使われていた。そのため、欧米諸国は遠洋捕鯨の際の補給基地として太平洋の島々を傘下に入れようとしていた☆1

(☆1)  当時、工業の発展はすなわち国の発展である。従って、欧米諸国は躍起になって捕鯨を行っていたと推察される。また、サモアのような太平洋の真ん中まで捕鯨操業範囲を広げなければならなかったと言うことはすなわち、母国周辺の鯨は漁獲過剰による資源枯渇(つまり絶滅もしくは絶滅寸前)を起こしていたと見ることができる。それを棚に上げて、現在では捕鯨反対と言っているのである。なお、江戸時代、日本へやってきたペリーは江戸幕府に開国を迫っているが、あれも遠洋捕鯨操業の補給基地確保のためである(なぜか歴史の教科書では載せないが)。


〜欧州の侵入<基督教伝道師来島>〜

 サモア諸島発見後、ラ・ペルーズLa Perouse、キャプテン・エドワードCaptain Edwardなどがサモアを訪れているが、宣教師団が入ったのは1830年、宣教師ジョン・ウィリアムズJohn Williams率いる平和の使者Messenger of Peace号によってサバイイ島に上陸した。彼らが上陸した当時、サバイイ島は戦乱の最中であった。
 彼らが一方の集団の長(最高位マタイ)Malietoaと会った時、彼は次のように語ったという。「我々の戦はもうすぐ終わる。この戦いが終わり次第、あなたたちに従おう」。その後、Malietoa率いる民が勝利し、彼がキリスト教を受け入れると周りの人々も、また2年間でサモア群島のほぼ全ての住民が続いて洗礼を受けたとされている。☆2

 このキリスト教の布教にあわせ、アメリカ、ドイツ、イギリスの三国がサモアに強い関心を示すようになった。上述のような部族間争いが多発していた背景に乗じて、米独英三国が干渉(各部族に肩入れ)し、20年もの王位争いを起こす結果となった(20世紀になって、皮肉にも同じような目にあったドイツ。誰が予想しただろうか)。 1899年12月、欧米列強各国が集うベルリン会議にて、サモア諸島は二つに分割され、西サモアはドイツ領、東サモアはアメリカ領となった。

(☆2)  なぜ彼らはあっさりと土着の宗教を捨て、伝道師の布教に従ったのだろうか? 最高位マタイ、マリエトアの人徳もあっただろうが、それにはサモアの伝説が関係している。サモアの伝説の一つにナファヌア伝説がある。それによると、女神ナファヌアは「海を越えて真の王国がやって来る。その王国が到来したならば、汝らはそれに加わらねばならぬ。」という予言を残したという。そして海を越えてやってきたのが宣教師団だった。つまり、彼らは伝説に基づく信仰を捨てたのではなく、信仰に従って、海を越えた王国に加わろうとしただけなのだ。
 私もサモアに土着の宗教が全く残っていないのは基督教布教に伴う異教弾圧の結果かと思っていたが、実は違うのである。


〜近代におけるサモア〜

 1914年、西サモアは第1次世界大戦勃発とともに、ニュージーランド軍によって占領される。その後、1920年のベルサイユ条約により、正式にニュージーランドの委任統治領となり、1947年にはニュージーランドの国連信託統治領となった。
 しかし、上記のような列強の一方的な支配に対し、サモア人は反植民地運動を起こし、1962年1月1日、ポリネシア初の独立国として西サモア共和国が誕生した。その後、国名を変更し、現在の名称「サモア独立国」(Independent State of Samoa、サモア語ではMalo Sa'oloto Tuto'atasi o Samoa )となった。  現在、サモアは第一次産業である農業・漁業の他、観光での外貨獲得を目標に掲げている。しかし…

 独立から近代化の影で、大規模な熱帯雨林伐採が外国人の手によって行われ、不当な価格で買い叩かれていたという事実を知る人は少ない。サバイイ島に樹齢の若い木々だけで構成される地帯があるが、これも大伐採の後であろう(噴火の影響はしばらくなかった場所だからだ)。1Tala=0.5USドルの時代、ある村の所有する森林では1000本の木をたった2Talaで売ってしまったという話がある(実際に伐採した面積は約800ha=8sq.kmで、それに対して4万Tala支払ったらしい)。地元民の無知・数盲を利用した詐欺行為である。他の国々でも多く見られる。
 
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